Fairy Tale ２
獣の名は、シンといった。
犬に似た大きな体躯、黒褐色の毛並み、何よりもその、赤い瞳。
地獄の獣と言われ、通常ならば西の山に住む、ケルベロスの一族だと、一目でわかるその姿。
群れから離れ、もっと深い山の中にいたところを狩り立てられ、父親と母親を殺されて、妹と共に捕まったのだという。
餌の名は、アスラン。
国防大臣の一人息子で、若くして軍神と言われた軍人だった。
国境紛争に決着が付き、本国に戻ったところで、実の父親の暗殺未遂嫌疑をかけられ、一言の弁明も許されずに刑死ということで片付けられた。
「でも、死んでないじゃないか」
そう言いながら、シンはアスランの傷をせっせと舐めた。
「・・・まだ、な」
ボロ切れを寄せ集めたようなシンの寝床に、放り出すように体を横たえて。
アスランは、かすむ目で少年を見上げた。
「なんか食う？」
「いや」
「水、いる？」
「いや」
「・・・・・」
シンは、きゅう、とアスランの首筋に鼻先をすり寄せた。
生き物の匂いがして、あったかい。
なのに、こいつはやっぱり死体だった。
タマシイが、中に入ってない。
それが、かなしい。
だって、せっかくあったかいのに。
「・・・やっぱ食わす」
シンはそう宣言して、ぐったりとしたままのアスランをひょいと抱き上げ、給餌用らしい鉄の格子と扉の前の、籠の前へと運んでいった。
食べなきゃ死んじゃうんだ。
そうじゃなくても、こいつ、怪我酷いのに。
こいつが死んじゃうのは嫌だ。
あったかい腕がなくなるのは嫌だ。
あの綺麗な湖みたいな目が、見られなくなるのは、嫌だ。
「シン・・・・」
餌場の側に放り出されて、アスランはちいさくうめいてシンを見上げた。
この子は、悪い子ではないけれど、どうしようもなく大雑把だ。
水が欲しいと言えば、少し下ったところにある、地下水脈の小川に放り込まれ、寒いといえば、寝床にしているボロ切れの山に埋められそうになった。
別に、早く楽になれるなら、その方がいいけれど。
「もらったの３日まえだけど。血が足りないんなら、肉食った方がいいよ」
「肉、は。もともと、駄目・・・・・」
「そんなこと言うなよ。なぁ」
「・・・・・・・」
「なぁってば！」
少年の大声をどこか遠く感じ、アスランは、緩慢に目を瞬かせる。
それを願わなくても、このままでは、自分はそう長くないだろう。
でも。
自分を見下ろす、赤い瞳。
よく見えなくても、それが涙をこぼしているのは、なんとなく、わかる。
この子を遺して逝くのは、可哀相だなぁと思った。
いなくなりたいけれど。
早く、楽になりたいけれど。
そうしたら、この子はきっと、もっと泣くだろう。
それは、なんだかとても可哀相だ。
「・・・シ、ン」
やっと出た声は、かすれていて、ひどく聞き取りづらかった。
「何か・・・切る、もの」
「何？飲むもの？」
「ち・・・が。刃物・・・・」
「はぁ？あるわけないだろ！」
涙でぐしゃぐしゃのシンが、がう、と吠える。
「そ・・・か」
アスランは、熱で上手く回らない頭を、懸命にめぐらせた。
刃物が、ないなら。
危険は大きいが仕方ない。
何もしないよりは、たぶん、生存確率は上がるはず。
そう思った自分が可笑しかった。
まだ、生きようとする自分が可笑しかった。
きっともう、狂っているのだと思った。
でも。
少年の涙が。
なんだかとても、かなしいから。
「なら・・・お前。俺の、手・・・右手。食い千切れ。なるべく、きれいに・・・・」
「なんで！」
アスランは、苦しくて大きく息をついた。
喉が痛んで、意識が遠のく。
それを必死に繋ぎ止め。
「傷・・・たぶん、壊死」
シンに噛まれた傷が、恐らく壊死をおこしている。
このまま放っておけば、たぶん、死ねるけれど。
でも。
目が、だいぶおかしくなっていて、真っ赤な瞳が歪んで見える。
それでも、そこからほとほとと落ちる涙はわかるから。
それが、俺はかなしいから。
「腕、落とせば・・・もしかしたら」
生きられるかも、しれないから。
「なんでだよ、できないよ！治るだろこのくらい！」
こ、の。
馬鹿。
「寝てるんじゃねえ！もいっかい抱けよ！両手だ両手！動かせ！」
このばか。
できるものなら、とうにやっている。
なくなよ。
おまえ、おとこだろ・・・・
そこで、アスランの意識は落ちて。
それでも、少年の泣く声は、耳の奥でかなしく響いていた。
どうしよう。
シンは泣きながら、アスランの体を抱いていた。
どうしよう。
どうしよう。
右手。
やっぱり、俺が噛んだからいけなかったんだ。
体中傷だらけだけど。
これが、一番ヤバイんだ。
食い千切れって、こいつは言うけど。
でも。
「・・・・っく・・・・・・」
この両手が、自分を包んでくれた時を思い出す。
たった1回だけだけど。
でも、とってもあったかかったんだ。
シンは、ぐしぐしと泣きながら、力を失った体を抱き上げて、自分の寝床へと戻った。
そうして、大きな獣の姿になると、その分大きくなった舌で、アスランの右手を丁寧に舐めた。
だって、シンは他に手当てのし方を知らないから。
肘の形が、なんだか歪んでいるのもちゃんと直して。
背中や、足や、足の間や。
他の傷も、たくさん舐めた。
お願いだ。
お願いだから。
治って。
もう一度、俺を抱いて。
あったかく、して。
お願い。
ひんひんと、勝手に情けなく喉が鳴った。
こんなにたくさん泣いたのは、両親が死んで以来だった。
でも、あんなふうにあったかくしてもらったのは、やっぱり父さんと母さんが死んで、妹と別に捕まえられて以来だったから。
神様なんていないこと、もうとうに知っていたけれど。
でも、シンは何かに願った。
お願い。
このひとを、たすけて。
国防大臣の息子には、生まれたときから噂が付きまとっていた。
曰く、妖精の子供だと。
母親である国防大臣夫人は、西隣の属国の出だとされているが、実際は出自が不明で、そうして子供を一人もうけただけで、数年前に死んだ。
たったひとりのその子供は、幼少にして馬を駆り、剣を使い、１３歳にして戦場へ出て功績を立てる。
矢を受けて倒れず、剣を受けて怯まず。血にまみれて、なお、戦う。
人は彼を軍神と呼んだ。
喉が渇いたな、と思った。
渇ききった喉で喘ぐと、何か、あたたかく濡れたものが唇に触れて。
そうして、流れ込んできたものを、アスランは貪るように飲み干した。
手足が重い。
起きたくない。
でも、もっと、水が欲しくて。
「あ・・・起きた！」
うっすらと目を開けると、真っ赤な色がぼんやり見えた。
それが、彼の瞳だと。
よく見えなくても、なんとなく、わかった。
「・・・ず・・・・・」
「え、水？もっと？」
「ん・・・・」
頷いてすぐ、失態に気づく。
このやり取りは、前にもあったじゃないか。
でも、声は出なくて。小さく唸って。
しかし、今度は水に放り込まれるようなことはなく、シンは口移しで水を飲ませてくれた。
そのまま、ぺろぺろと顔中を舐められて、くぅ、と鳴かれて。
それから、彼の頭が右腕に行くのを見て。
噛み千切られた肉の塊が、まだ指の先まであるのが見えて。
食い千切らなかったのかとぼんやり思い、かすむ目をこらして傷の状態を見ようとする。
「傷・・・膿んでたけど、全部舐めたし。肉、盛り上がってきてる気がするんだ。きっと治る。何か食う？食わないと死んじゃう」
傷はよく見えなかったけれど、そこから顔を上げたシンがそう言うのだからそうなのだろう。しかし、何かを食べる気にはならなくて、緩く、首を振る。
とたん、少年の顔がくしゃりと歪んだ。
「駄目だよ・・・・」
ああ、泣くなよ。
しかしそれは言葉にはならなくて。
「う・・・」
小さな唸りが喉を通っただけだった。
「新しい餌が来て。果物あるんだ。食えないか？」
シンは勝手に駆けて行き、勝手に何かを持ってきてアスランの側に跪く。
「桃があったんだ。これなら、柔らかいから食えるだろ」
唇に触れた果汁は、麻痺しかかった舌にもわかるほどに、甘かった。
そのまま、滑り込んできた小さな塊を嚥下する。
ざらりと喉を擦るのは、剥かれていない皮だとわかった。その大雑把さに、思わず笑みがこぼれる。
「美味い？もっとやるよ」
「ば・・・か、かわ・・・」
今度はかろうじて出た声に、シンは思わず涙をこぼす。
「あ・・・そっか。ごめん」
千切った果肉から皮を毟り取り、濡れた指先から、また、色を失った唇へ。
それを素直に飲み込むのを見て、涙の訳が、安堵だと知った。
「うーっ」
泣き出すと、それをまた笑われて。
まだ、甘い汁の付いた唇を、ぺろぺろと舐めた。